吉野について
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本校4階からはこんなによく桜島が見えます

西郷隆盛蘇生の家 磯海岸の三船神社
西郷隆盛蘇生の家
尚古集成館前から日豊本線に沿って、国道10号線を北へ約一キロメートル行くと、左手線路わきに小さなわらぶきの家があります。これが西郷隆盛蘇生の家です。西郷隆盛は、京都清水寺成就院の、住職月照といっしょに死のうとして鹿児島湾にとびこみ、西郷だけ助かりました。1858年(安政五年)冬のことでした。では、どうして二人とも、死のうとしたのでしょう。そのころ、我が国では、通商条約の調印や将軍の後継ぎ問題などで、幕府の政治のやり方に、反対する人が、日本のあちこちに出てきました。1854(安政元)年、西郷は、島津家28代藩主島津斉彬の参勤交代のお供をして、江戸で働くことになりました。そこで西郷は、斉彬から学問や世の中の動きなどを教えてもらいました。斉彬の使いの仕事をする中で、そのころの日本の一流の人物とも知り合い、多くのことを学びました。斉彬は、幕府の政治をかえなければいけないと考えていました。西郷も斉彬の考えと同じで、月照もそのなかまでした。1858(安政5)年の。夏、尊敬する斉彬が急病で亡くなってしまいました。西郷は、この知らせを聞くと、大きなショックをうけ、斉彬の後を追って死のうとさえ思いつめたのでした。そのとき、僧月照から『残された者が、斉彬の考えをうけついではたらくのが恩にむくいるみちです。』と、さとされました。ここで、西郷は、死を思いとどまり、国のために尽くすことを決心しました。次第に,幕府の政治に反対する人たちが多くなってきました。そこで,幕府は,これらの人たちをきびしく取りしまるようになり、とらえた人を死刑にしたり,牢にいれたりしました。月照も,幕府の手でとらえられそうになりました。当時,月照と親しくしていた公家の近衛忠熙からさいごうは、『月照をかくまってくれないか。』とたんまれました。西郷は月照とともに瀬戸内海をくだり,途中から月照を迎える準備のために,一足先に鹿児島に帰りました。 しかし,薩摩藩は,幕府をおそれてかくまってくれません。斉彬の死後の薩摩藩では,幕府を恐れる人たちの力が強くなっていたのでした。。その年の十一月八日、月照が鹿児島にやってきました。藩では,西郷に対し,十五日の夜中に,月照を連れて日向高岡へ行くように命じました。この日向へ送る者を東目送りとか永送りとかいって、途中で切り捨てるのがならわしになっていました。西郷もこうなってはどうすることも出来ません。 西郷は,月照といっしょに船出しました。十一月十六日の明け方近く、三船の沖に船が差し掛かったとき、西郷と月照は抱き合って鹿児島湾に身を投じたのでした。月照46歳、西郷31歳でした。しかし、二人は引き上げられ、花倉の砂浜でたき火をたいて温め,坂下長右衛門の家で手厚い看護を受けました。そして、西郷だけが息を吹き返しました。これが,西郷隆盛蘇生の家です。月照は亡くなりましたが、大久保利通などによって手厚く南林寺の西郷家墓地に葬られました。月照の墓は南林寺の境内にあります。

寺山公園
吉野台地の中で、最も高いとこにある寺山公園の大崎展望台に立つと、鹿児島湾と雄大な櫻島が目の前にせまってきます。晴れた日は、霧島や開聞岳も眺められるほど景色の良いところです。公園の広場には、「寺山の賦」の碑が立っています。この碑には漢詩が刻まれています。これは第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)の最初の館長であった岩崎行親が、1927(昭和2)年、寺山から眺めたすばらしさと、吉野台地で開墾にはげんだ西郷をしのんで詠んだものです。岩崎は教育者として西郷隆盛を大変尊敬していました。とくに西郷の『敬天愛人』の考えを理想像として、毎日の学習にとり入れたといわれます。近くにはスポーツ施設を兼ね備えた寺山ふれあい公園もあります。

私学校生徒と労苦をともにした 南洲翁開墾地の碑
市営バスの寺山自然遊歩道入口から、マツやモミジなどの木々のしげった遊歩道がのびています。この遊歩道を300メートルぐらい歩くと右手に40段ほどの階段が見えてきます。この階段を上ったところに高さ5メートルほどの「南洲翁開墾地の碑」があります。1873(明治6)年、遣韓論に破れて帰郷した西郷は、翌々年ここに開墾社をつくり、この一帯およそ39ヘクタールを開墾し、自分も生徒とともにくわをふるいました。当時の開墾社には西郷と行動をともにした(陸軍教導段)の生徒も約100名入っていました。そして、昼間は開墾に勤め夜は学問にはげみました。石碑の前のあたりは、寺山私学校(教導学校)があったところです。


吉野東校区周辺にある名所・史跡など
 □ 吉野公園・・・花見の名所です。
 □ 寺山公園・・・展望台からは錦江湾が一望できます。
 □ 石郷遺跡・・・縄文時代の遺跡です。
 □ 造士館跡・・・薩摩藩校造士館が、中別府地区にありました。
 □ 寺山炭窯跡・・・炭窯の碑も近くにあります。
 □ 少年自然の家・・・PTA,部活動の合宿などでお世話になっています。


「吉野町」の由来等
この台地に人が住んでいたことは「石郷遺跡」が発見(大、4)されたことでもわかるが、古くからこの台地を「吉野が原」と呼ぶようになった。
いまから約600年前頃「吉野牧場」が開かれ、放牧がなされ勇ましい馬追い行事が行われてきた。明治17年地方自治制度の改革で吉野村となり、昭和9年市合併で吉野町となった。
「摘要」(おもな文化財、施設等)
・寺山公園  ・南洲翁開墾の碑 ・尚古集成館 ・異人館
・仙厳園付花倉御仮屋庭園 ・実方太鼓橋